上上津だんじり史


 現在のだんじりは、大正3年(1914)ごろ、三田市の鍛冶屋町から購入したもので(元々は神戸の住吉で使われていた。)、後に改造したのでかなり小さくなったが、購入時は今より相当大きく、三田から村まで、家々の屋根を引っかけ、瓦を割りながら持ち帰ったということからもその大きさが想像できます。
 だんじりは、村の青年団が曳いていました。宵宮(当時本宮は10月17日、宵宮は16日)には、早朝からだんじりを仕立て、岩谷口(いわたにぐち)にあった農業倉庫まで曳き出していましたが、集合時間に遅れると酒一升を罰として出さねばならなかったといいます。

 曳手の装束は、昔も今もほとんど変わりなく、白いシャツに白のパッチ(近年は白いズボン)、祭襦袢をはおり、足元は地下足袋(近年はスニーカー)を履きました。豆絞りを首に巻く者あり、また八巻にする者あり。
 昭和30年代に入ると、青年団員の数が減りはじめ、お囃子を小学校5・6年生の男児に担当させることとし、祭りの1ケ月も前から毎晩のように青年団員の厳しい指導で練習しました。
 子供たちには、待ちに待ったお囃子担当で、厳しい指導も苦ではなく、お囃子の子供たちは、学校での授業を免除されるなど、様々な特別待遇に心地よい優越感を味わったものです。

 当時のだんじりは、小さく改造したとはいえ、現在よりもひとまわり大きく重いもので、曳手の減少するなか、曳回しは大変な重労働となっていた。(曳手が4、5人という年もあって、神社への上り坂では参拝客が助太刀したといいます。)
 昭和40年(1965)、青年団の解散が余儀なくされ、翌昭和41年、5組に分かれている隣保ごとに曳くことにしましたが、隣保によっては人数が不足するところや特に若者の人数にバラつきがあり、村曵きはあきらめ、境内だけで曳き回すことにしました。お囃子も子供ではなく、当番隣保の大人が担当しましたが、やはりこれでも継続していくことは難しくなり、だんじりの傷みもひどくなってきたことから、もう続けていくのは無理との声が出始めました。

 この時、地区の若者が集まる消防団(第1分団)が「我々の手で伝統を引き継いでいきたい。」と申し出て、昭和56年(1981)から消防団(上上津親睦会)に巡行を委ねることにしました。傷んで、割れかけたコマには、鉄輪をはめるなどして、団員たちの心意気で動かしました。
 昭和59年(1984)には、再び地区の子供たちにお囃子を担当させることにし、本宮当日には境内を出て、子ども神輿の先導で地区内を巡るなど、ほぼ昔通りに復活を遂げたのです。

 こうした地区の若者の熱意に押されて、平成2年には再びだんじりを大改造するに至り、さらに小振りになって、購入当時の面影はほとんど無くなってしまいましたが、地区に残る唯一の文化財として、また神事をこえた地域のコミュニケーションイベントとして、氏子たちの熱意で守り、継承されています。

<*平成12年、体育の日が10月第二月曜日に変更される。秋祭りも新体育の日の開祭となる。>
<*平成13年6月9日だんじり庫の床面(砂利敷)をコンクリート打ちに改修。だんじりの出入庫が楽になりました。>
<*平成13年10月7日、大太鼓と釣り鐘が新調されました。>
<*平成15年、体育の日(10月第二月曜日)の前日開祭となる。>

<写真=昭和51年・1組のみなさん>


○「上上津だんじり史」取材にご協力いただいた方々
林弘・林義雄・流田邦弘・今西邦夫・辻三次・流田秀一・奥町太郎・奥町収・三谷範夫・坊ヶ内肇・岡田正作・奥町福蔵・木村清弘(「だんじり新聞」主宰)・ほか地域のみなさん。(敬称略・順不同)


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