上上津に新しく"名所"が誕生しました。
「茶臼山保存会」の皆さんのご努力が実り、住民の憩いの場としてこのほど「茶臼山緑地」が整備されました。




 ▲ 本丸広場

 ▲ 南丸展望広場から上津台を望む

 ▲ 本丸から上上津、赤松台を望む

住民の願いかない公園に 神戸・北区の茶臼山城跡  (神戸新聞 2002/06/11 記事より)


 神戸市北区長尾町上津に戦国時代あった「茶臼山城」の跡地が、地元住民の願いがかない、公園に生まれ変わった。展望台や顕彰碑が整備され、住民は「学校の遠足に使ってもらい、子どもたちが地域の歴史に関心を持ってくれたら」と喜んでいる。

 城があったのは、ニュータウンの上津台と三田市に挟まれた小高い山の上。本丸や二の丸、物見台を備え、一連坊(いちれんぼう)祐之(すけゆき)という郷士が二百人を超える家臣を抱えていた。秀吉の三木城攻めの際、家臣の命を救うため城を明け渡し自らは切腹したとされる。

 四年前、家臣の末えいという同地区の坊ケ内昭二さん(74)が代表となり、十数人で保存会を結成した。「当時の家臣の姓は今も大半が地元に残っている。一連坊があったからこそ子孫がいる」と同地区出身の三田市弥生が丘、森本和男さん(74)。坊ケ内さんの祖父が書いた「茶臼山城史」を冊子にまとめるなど活動を続けてきた。

 城跡が忘れ去られないようにと、一連坊の顕彰碑や展望台、地元からの散策道の整備を、土地所有者の都市基盤整備公団と神戸市に繰り返し要望。上津台のニュータウン造成工事の一環として整備されることになった。

 今春完成した公園は約 1.6ヘクタール。伐採で見晴らしをよくした展望台と顕彰碑、ベンチなどが整備され、サクラやモミジなどの若木も植えられた。保存会が管理し、掃除などを受け持っている。森本さんは「子どものころ城跡で遊んだが、けもの道しかなく荒れ放題だった。今から花見が楽しみ」と話している。 


 ■地元住民で「公園管理会」を結成。維持管理に努めています。    (2002/07/28 photo:.K.Imanishi)


戦跡に茶臼山が多いのはなぜ?

 全国に「茶臼山」は200以上あるといわれます。
なぜこんなに「茶臼山」が多いのか。しかもそのほとんどは戦跡です。
 「茶臼は引では落ち申さず。一先引き候らえば、敵は粉になし可申し候らえば、実にも実にもとて・・・」上杉謙信も川中島の戦いに長野市の南方篠の井から見える「茶臼山」に、長篠の戦いでは家康が「茶磨(臼)山」に(今も電車の駅名になっている)、大坂冬の陣では「茶磨山」(現在は町名に残る)で・・。と、戦国武将は縁起をかついで陣は「茶臼山」に引いたのです。
 元は違う名であった山も「茶臼山」と呼ばせたのかも。


長尾町と上津谷」(「北摂三田の歴史」北 康利・著)という著述を見つけました。
  (*著者は長尾町出身の北良一氏のご子息で、亡父の故郷・長尾町への特別の思いから著されたそうです。)


茶臼山緑地公園に関するお問い合わせは・・・「TONBONET 管理人」 まで


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